ディズニーランドができるまで
第1回では、元々ウォルトは「交通博物館」を作りたかったと言うことや、ディズニーランドを考える前には「ミッキーマウス・パーク」と言うコンセプトがあったと言うことも書いてきました。まだ読んでいない方はこちらからぜひ読んでみてください。ディズニーランドができるまで 第1回
「ミッキーマウス・パーク」の構想
第1回でミッキーマウス・パークについて述べましたが、なぜミッキーマウスパークは実現されることなく「ディズニーランド」になったのかをまとめていきます。
第1回で書いたようなミッキーマウス・パークの構想が建てられていました。そこでウォルトは1951年にその構想を美術監督としてスタジオに雇った「ハーパー・ゴフ」にミッキーマウスパークのスケッチを描かせ、一人目のイマジニアとしました。 彼はディズニーに大きく影響を及ぼしている美術家であるので、別の記事でまとめます。
そのスケッチをみたウォルトはどんどん夢が膨らんでしまい、11エーカーの土地には収まらないと思い始めました。そこで、ゴフと共に働いている専従のアーティストとデザイナーをアニメーションスタジオから連れてくることにしました。
「WEDエンタープライズ」を設立
1952年、ミッキーマウス・パークから「ディズニーランド」と名称を変え、さらに「ウォルト・ディズニー・インコーポレイテッド」(のちにWEDエンタープライズに変更されます)を設立します。
ここで、長年スタジオで働き、監督の経験もある「ビル・コットレル」を呼び寄せました。そして彼に組織の運営を任せました。
1953年、ディズニーランドの建設予定地として、アナハイムのハーバー通りとサンタアナ・フリーウェイが交差する地点にある160エーカーのオレンジ畑が選ばれました。
さらに、美術監督を務めていた「リチャード・アーヴィン」と「マーヴィン・デイヴィス」がWEDに加わり、ゴフと共にディズニーランドのデザインやプランを進展させました。
平面から立体へ
ウォルトがディズニーに込めた想いの一つとして、パークをスクリーンの平面を超え、パークという立体的な形でストーリーを語る場にしたいと言うことです。ウォルトは映像作品の限界を知っていました。どれだけ多くの人を感動させる映像を作り、感動させても、一度の体験には勝りません。一度の経験は何ヶ月、何年を超えて、一生さえ覚えています。だからこそ、スクリーンだけでなく、三次元の、立体のパークでストーリーを伝えていきたいと思いました。
ここに関しては、書き出したら止まらないくらいの歴史がありますので、別の記事で書きます。
技術の進んだ明るい未来
もう1つの動機と言われているのが、ウォルトはアメリカの科学技術の素晴らしさと、それによってもたらされる明るい未来をアメリカ人に見せることで希望を持たせたかったと言われています。
万国博覧会を想像してください。博覧会にパビリオンを出展したところ、それが終わると取り壊されますよね。しかし、ディズニーランドに企業パビリオンを作れば、取り壊す必要もないですよね。そうすることで、科学技術の進歩を多くの人に見せることもできますし、スポンサーとして巨額の投資をしてくれることも間違いないでしょう。今では、当たり前のようですが、これが1つきっかけとなっていました。
映画で育ったイマジニア
初期のイマジニアは映画専門です。WEDを設立したときに、ウォルトが呼び集めたのは映画の世界のプロです。だからこそ、パークの設立と言う新しい分野に対しても、映画の技術・美術などを用いて作りました。ディズニーのアニメーションを題材に映画を作るように、ライドやアトラクションのストーリーを作り上げました。このようにいっても、もともとディズニーアニメーションをモチーフにしたアトラクションばかりではなく、これらは多くがファンタジーランドに集中しています。他のアトラクション「カリブの海賊」や「カントリーベアシアター」なども、基のストーリーがあったわけではないです。しかし、上に述べたように映画を作るようにアトラクションを作っているので、のちに映画化されるようになったと考えられるのではないでしょうか?
このような経緯を経て、「ミッキーマウス・パーク」は「ディズニーランド」へと進化していきました。この過程における細かいストーリーもどんどんとまとめていきたいと思います。