ディズニー 人物史「ハーパー・ゴフ」

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@ディズニーの歴史

ハーパー・ゴフ

この記事では、「ディズニーランドができるまで 第2回」に出てきた「ハーパー・ゴフ」についてまとめていきます。

ハーパー・ゴフ

☆ 1911年3月16日〜1993年3月3月(81才11ヶ月)
☆ アメリカ合衆国の芸術家、音楽家、俳優

彼の生き様

ゴフはコロラド州フォート・コリンズに生まれました。

彼は生涯を通じて鉄道模型の熱狂者で1951年にウォルト・ディズニーと思わずロンドンの模型製造店で出会い、ウォルト・ディズニー・カンパニーのロサンゼルの美術チームの一員となりました。

そして、「ディズニーができるまで 第2回」の記事でも述べたようにウォルトが初めに考えたテーマパーク「ミッキーマウス・パーク」の構想をイラストに起こしました。そして、彼は一人目のイマジニアに選ばれました。

その後「ディズニーランド」の初期の完成図やアイデアを作り上げました。さらに、ウォルト・ディズニー・ワールド・テーマパークにあるいくつかのエリアの演出の背後にある美術力は彼の努力の賜物になっています。

ゴフの象徴

では、ゴフを象徴するものといえば、何でしょうか?
ここでは皆さんに一番馴染みがあるものを紹介します。

それは、「海底二万哩(マイル)」です。
「海底二万哩」とは1954年のアメリカ映画です。「ジュール・ヴェルヌ」のSF小説「海底二万里」を映画化したものです。

「ジュール・ヴェルヌ」のSF小説「海底二万里」は1916年にユニバーサル・ピクチャーズが「海底六万哩」が映像化していました。その中、初のスコープサイズでカラーでした。また。この当時、ウォルトらはアニメーションを主体として、映像作品を作っていましたが「海底二万哩」は実写という形で公開しました。

そして今は、東京ディズニーシーにも「海底二万マイル」というアトラクションで多くの人に知られています。

ディズニー・レジェント

ここまでゴフの偉大さを語ってきましたが、彼は「ディズニーレジェント」にも選ばれています。「ディズニー・レジェント」とは簡単にいうと、ウォルト・ディズニー・カンパニーに大きく貢献した人に贈られる賞です。現在までに300人弱が受賞している賞です。

つまり、彼無くして、今のディズニーはないかもしれません。彼が、「ミッキーマウス・パーク」のイラストを書かなかったら、「ディズニーランド」を作りたいというウォルトの思いは生まれず、日本にウォルトが携わるテーマパークが来ていなかったかもしれません。そう考えると、 ゴフは今のディズニーにとって欠かせない一人であったと思います。≈

コメント

  1. […] 第1回でミッキーマウス・パークについて述べましたが、なぜミッキーマウスパークは実現されることなく「ディズニーランド」になったのかをまとめていきます。 第1回で書いたようなミッキーマウス・パークの構想が建てられていました。そこでウォルトは1951年にその構想を美術監督としてスタジオに雇った「ハーパー・ゴフ」にミッキーマウスパークのスケッチを描かせ、一人目のイマジニアとしました。 彼はディズニーに大きく影響を及ぼしている美術家であるので、別の記事でまとめます。 そのスケッチをみたウォルトはどんどん夢が膨らんでしまい、11エーカーの土地には収まらないと思い始めました。そこで、ゴフと共に働いている専従のアーティストとデザイナーをアニメーションスタジオから連れてくることにしました。 […]

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